◆私の「高認」合格体験記

こんにちは。
私の名前は、西山洋美と言います。
兵庫県に住んでいます。
シングルマザーで、小6の長女・小5の長男・小1の次女の3人の子供を抱えながら、高校卒業程度認定資格試験の講師をしています。

私自身、もともとは中学もまともに行っていなく、学歴はありません。
いろんなきっかけがあり、24歳の時に高認を取得してこの仕事を始め、今年独立をしました。
非行に走ったり、学校生活に馴染めなく不登校になってしまって勉強できなかった人や、母子家庭や家庭環境に問題があって進学ができなかった人、高校に進学はしたけれど、中退をしてしまった人。
そんないろんな事情があって学歴がない人達や、私のようにシングルマザーなどで再スタートするために高認を目指す人や、高校受験を控えている中学生などを対象に、家庭教師をしています。

私の父と母は、私が小学校の頃に離婚しました。
その後、大阪で4人とも母と暮らしていました。
私が物心ついた小学校高学年の頃には、母は家事もろくにせず、時々2~3000円のお金を置いて2~3日家をあけていました。
私が中学に上がってからは、母とぶつかることが多くなりました。

当時、父の所に一度遊びに行ったことがあるんですが、そこには父と新しい奥さん(正式には未だに籍は入れておらず、でも今は私にとっても第二の母)とその息子さんと姉。
新しい家族ができているような感じで、私には入れないなと思いました。
それだけがきっかけというわけではありませんが、もともと学校があまり好きではなかったのもあり、徐々に学校にも行かなくなりました。
そんなこともあって、夜遊びに煙草から始まり、シンナーに暴走行為に喧嘩など、一通りのことはやったと思います。

夜遊びをするようになってから、自然と先輩や他校の子達とも仲良くなりました。
シンナーも、きっかけは地元です。
自分で言うのもなんですが、あっさりさっぱりした性格なのですが、それが同性にはあまり好かれず、男友達や先輩が常にまわりにいる状態でした。

そのうち大阪の梅田やミナミに出るようになり、友達とホストの寮に住み込んだり、仲良くなった子達の家を渡り歩いたり、彼氏と同棲したり、シンナーも地元やホストや友達、どこからでも入りました。
暴走行為もしましたが、私自身は暴走族に入っていたわけではなく、そういう友達が多かったのでよく一緒に走っていました。

幸いにも、鑑別所にすら入ったことはありません。
ですが、たびたび補導や万引き・窃盗・暴走行為・喧嘩で警察にお世話になったとき、母は一度も迎えに来てくれたことはありませんでした。
学校に呼び出しされた時もです。

一度だけ、父と義理母が来てくれたことはありました。
親友の親が来てくれたこともありました。
反発しながら勝手なんですが、それはそれで少し寂しい気がしたのを覚えています。
まわりの友達には「親になんも言われんでいいなぁ」「自由でいいなぁ」と言われてましたけど、私からしたら、迎えに来てくれたり、心配してくれる親がいることが羨ましかったです。
時々家に帰っても、母の気分で怒鳴られました。

私は、中学卒業とともに水商売を始めました。
中学もまともに行ってなかったので、もちろん高校進学も考えるわけもなく、中学の頃から「自分の食いぶちは自分で」って感じだったので、好奇心もあって夜の仕事を選びました。
ラウンジで一年近く働いたあと、キャバクラで働き始めました。
ラウンジはスナックみたいなところで、時給もそんなには高くありません。
お店も深夜1時頃には閉まります。
キャバクラの方が時給もよく、朝まで営業しており、労働時間も長いので、キャバクラに行きました。

そして、16歳のときに初めて妊娠。
結婚し、17歳で長女を出産しました。
同年、また妊娠をしたのですが、気づいていませんでした。
「生理がきてないのでおかしいな」と思い、「もし赤ちゃんできててもこの子は産めないな」と思いながら病院に行くと、すでに6ヶ月に入る頃でした。
病院とも話し合い、18歳で長男を出産しました。
息子は特に異常もなく、無事健康に生まれてきてくれました。

その数カ月後、私の母は育児放棄とみなされ、私の妹と弟は児童相談所の一時保護所に連れていかれ、そのまま児童養護施設に預けられました。
私や姉や父がそれを知ったのは、預けられた後でした。
すごく悔しかったです。

一時は姉と一緒に地元に部屋を借りて、妹と弟が暮らせる環境を作ろうかと考えたものの、未成年の私たちには自分達の生活もあり、そこまでの行動力もなく、何もしてあげられなかったんです。
親権が母にあったため、父も引き取ることができなかったみたいです。
その後も、母のことではみんな何度も手をやき、悩みました。
「施設に入って一年くらいで連れ戻す」と母は約束したものの、母の元に戻れることはありませんでした。

そして私は、19歳の時に離婚しました。
今思えば、私の結婚生活は本当に若く、勢いだけで過ぎていった3年間でした。
結婚してる時も、産後すぐに水商売に戻っていたので、離婚後も子供を託児所に預け、そのまま仕事を続けました。

23歳の時、当時付き合っていた彼との間に子供ができ、未婚のまま次女を出産しました。
彼とは結婚には至らず別れましたが、2年ほど一緒にいたので上の子達も父親と思っており、彼も未だに我が子のように可愛がってくれているので、時々会ったりはしています。

子供が3人になり、「このままずっと水商売をしていくのは…」と考えるようになりました。
でも、私はこの仕事しか知りません。
学歴もありません。
確かにキャバクラやクラブは給料がいいです。
でも、お酒を毎日飲み、お店以外でもお客さんとの付き合いがあります。

この頃は末っ子だけ託児所に預け、長女と長男は二人だけで家で寝かしつけてから仕事に出ていましたが、まだ保育園の小さい子供です。
さすがに、「このままじゃな…」と思いました。
シングルマザーで安定した仕事で収入を得る。
そんな簡単にはいきません。

その時、友達が看護師になるために勉強をしているのを見て、「私も何か資格を取ろうかな」と思いました。
何を考えてもやっぱり高卒という壁がありました。
そして、「高校卒業程度認定資格試験」っていうものを知り、これを取りたいと思いました。

そう思っても、次は勉強という壁。
勉強なんてしたこともないって言えるくらい、何もしてこなかったんで、やり方すらわからない状態でした。

そんな時、友達つながりで前の会社の社長さんを紹介してもらえることになりました。
その社長さん自身、高認を取得しており、塾で講師をしている方で、彼が私の家庭教師をしてくれることになったんです。

資格を考えだしてからそんな時間はかからず、トントン拍子で話が進みました。
もっと時間がかかっていたら、きっと未だに私は高認を取れていなかったかもしれません。
しかも、話がまとまる頃には、すでに5月の願書締め切り直前。
急いで願書を出すことから始まりました。

それから週2回ペースで授業をしてもらいました。
少数も分数もまともにできないくらいだったので、慣れない勉強に仕事に育児に家事。
正直、しんどかったです。
胃が痛くて授業ができないときもありました。

そんな中でも彼は私のペースに合わせてくれて、8月の試験では全8科目中6科目合格しました。
そして、11月の試験で残り2科目合格。24歳の時に高認を取得しました。
本当に嬉しかったです。
応援してくれたみんなに心から感謝しました。

中学の頃からフラフラ遊んで悪さばかり。
今まで何かに向けて頑張ったことなんて一度もありません。
きっと生まれて初めて目標をたて、それを達成できたのが高認でした。

若くて妊娠・結婚・離婚。
ましてや水商売。
批判されることも多々とありました。
こんな私でもいろんなタイミングで出会った人がおり、私の人生を後に大きく変えることになりました。

高認取得後、そんなすぐに何かが変わったというわけではありません。
水商売もなかなか辞められず、続けていました。

今まで散々好き勝手やってきたし、親孝行として父の代わりにできることはしてあげたい。
弟も10こも離れているので、可愛いです。
でも、弟には何度も何度も心配をかけるようなことを繰り返されて、そのたびに時間もとられ、自分の生活もあり、いろんなことが重なって、私はもう精神的に病んでしまい、鬱病になりました。

そのうち弟は家出をし、住み込みで働いていたみたいです。
私はろくに働くこともできなくなり、なにもかも嫌になり見失い、2年ほど安定剤に睡眠薬と薬づけでした。今振り返っても最低な母親だったと思います。
子供達は文句一つ言わず、私を気遣ってくれていました。

何度か自殺未遂もして入院、一度は生死をさ迷うほどでした。
そんなことを繰り返してるうちに、「何回死のうって思っても死ねないんやな」って思いました。
そして、2009年の年末、高認の授業をしてくれた社長さんからこう言われたのです。

「高認を目指す人達の塾を作りたいと思ってる。
水商売をしてる子は学歴がない子も多いし、登校拒否や非行に走ったり、なんかしら理由があって学歴がなく、自分の将来のために高認を取ろうと思ってる人達を対象にしたいと思う。
それには講師として、ひろちゃんが適任やと思うねん。
こういう子達が何か目標立てたとき、モチベーションが続かん限り挫折してしまう子も出てくると思う。
ひろちゃんならそんな子達の気持ちもわかる先生になれると思うねん。
だから講師やってみーひん?」と。

私は自分が高認をとってから3年ほど経っていたので、「そんなんできるわけない」っていう気持ちの反面、嬉しくも思い、私にそんなことができたら・・・とも思いました。
今までやってきた自分の人生、人に話せるようなことでもなければ、役に立つことなんてない。
そう思っていたのに、そんな私でも人の役に立てることがあるかもしれない。

考えた結果、私は講師になる道を選びました。
水商売一本ではもう精神的に持たなかったし、自分自身の経験を活かせれる仕事なんてそう出会えないだろうし、この仕事にすごく興味を持ちました。
まだ若干鬱から抜けきれていなかった私を、彼はいろいろサポートもしてくれました。
そのおかげで自分の受け持った生徒から、無事、高認合格者もでました。
自分が合格した時のように、本当に嬉しかったです。

そして2011年、社長さんのもとを離れ、個人で講師をやっていく道を選びました。
まだ早い気もしましたが、子育てもあり、特に上の子達は年頃のため、目にかけることもいっぱいです。
自分のペースで仕事をしていこうと思い、独立を選びました。
独立したといっても、そう簡単に生徒が見つかるわけでもなく、まだまだ軌道にはのってません。
もちろん、それだけで食べていくのは大変なので、今はラウンジでアルバイトをしつつやっています。
家からも近く深夜1時頃には終わって帰れます。

父はもう70歳になり、足も不自由なためにできることには限界があります。
弟と妹は2人とも親元で育つことができなかったので、私のできる限りのことはこれからもしていってあげたいと思っています。
みんなが一つ屋根の下で一緒に暮らした時間は普通より短く、その分、溝もありました。
でも、今はみんなそれぞれできることが違うけど、家族どうしで助け合っています。

母はずっと昔に何度か連絡はありましたが、いろいろあったので、私は精神的に持たず、距離をとるようになり、今は連絡もとっていません。
時々思い出しますが、母はきっと、私が一番話しやすい相手だったんだと思います。
私も母親になり、少しは親の苦労もわかるようになりました。
でも、だからといって育児放棄は理解できないし、母みたいにはなりたくありません。
昔を思い出すと、胸が痛くなることばかりです。

私の29年間良いことも嫌なこともいろんなことがありました。
でも、なに一つ後悔はありません。
反省はしても、後悔はしたくありません。
すべて自分で選んだ道です。
いろんな人に助けられ、チャンスをもらい、今があります。

子供達には散々寂しい思いをさせました。
きっと今もしているとは思います。
多少の反抗期ではあるけれど、小さい頃から文句言わず泣き言言わず、ずっと「ママお仕事頑張ってね」って言ってくれます。

高認は本当に私にとって大きな人生の転機であり、昔では想像もつかなかった仕事にもつけました。
この仕事はまだまだ続けていきたいと思っています。
どこまでやれるかはわかりません。芽がでないかもしれません。
でも、勉強だけではなく、知り合った人達のなにかのきっかけの一つにでもなれればなと思うんです。

私自身、まだまだ勉強不足です。
講師として日々勉強もありますし、母親としてまだまだ子供とともに成長していかなければなりません。
私自身のため。
「頑張れば無駄なことなんてないんだよ」ってことを、子供達に教えてあげたいです。
今後また資格も取りたいと思っています。
正直、今はなかなか自分の時間が作れず、新しい資格の勉強ものばしのばしになっています。
でも、目の前の忙しさに理由をつけて甘えている自分もきっといます。
今は一番、簿記を勉強したいと思っています。
そして宅建。これは特に理由はないんですが、前から思っていました。
仕事に生活に、なかなか時間は難しいですが、ひとつずつ前進していけたらなと思います。

どんな資格でも勉強でもどんなことでも、人生なんでもやって無駄なことなんてないと思うんです。
人によって、あるいは状況によって、時間はかかるかもしれません。
自分が思ったとき、その時がタイミングなんじゃないんかなと思います。
今日この場を設けてくださったことも、私にはすごく良いきっかけになりました。
改めて今までの自分、これからの自分を見つめなおすことができました。
本当に感謝します。ありがとうございました。


(2011年11月23日 福岡・あじびホールでの講演記録より)